池田満寿夫写真展「楽園のこちら側」が、Art Gallery M84で開催される。
開催概要
今回の作品展は、Art Gallery M84で第133回目の展示として実施する「版画家であり、作家・映画監督・陶芸家などの他、テレビ界でも活躍し、従来の枠にとどまらず多才に活躍した芸術家 池田満寿夫」の写真展です。彼自身が撮影した非常に珍しく貴重な全写真作品が約34年ぶりに京都で発見されました。それらの写真作品は、中央公論社の文芸誌「海」に連載された小説『楽園のこちら側』が単行本になる時、編集部と相談してユニークな本にしたいという両者の意向で、写真をふんだんに入れた本にしようと意見が一致したことから池田満寿夫がパリに滞在していた時にパートナーでヴァイオリニストの佐藤陽子を伴って、彼自身が撮影したものです。
ピカソやミロも絵をやり、彫刻をやり、版画をやり、陶器も作った。池田満寿夫はその上、小説を書いて芥川賞をとり、写楽の浮世絵を探求、舞台も映画も作り、テレビにも多く出演、この多才ぶりを日本の美術界は遠巻きに見ていた。日本の美術界は各種団体の有力者が牛耳っている。以上の活躍から、生前から正当な評価を受けていたとは言いがたい。また、版画、陶芸などについての本格的な評論は生前も、死後も数少ない。しかし、どれを見ても彼の作品は一流。今回は、約40年前にパリで撮影された写真ですが、エロスの作家といわれるように官能的なモノクロ作品です。彼の写真履歴など記憶に無いが、写真も一流であった。今年で没後26年。自然の光を巧みに捉えた裸婦の作品から何かを感じてもらえることでしょう。是非ご覧ください。
(日本有数のアートコレクターでもあるはっとり・よしを氏は、池田満寿夫と親交が有り、小説「楽園のこちら側」の為に撮影された作品のオリジナル・プリント化を企画・制作。約34年前に、親友の西田清美氏の経営する婦人下着会社・株式会社カドリールニシダが東京・六本木にオープンするカドリールboutique の輸入ランジェリーと写真を融合する企画展のPART-1とPART-2に別けて展示して注目を集め、話題となったユニークな作品群です)
ステートメント
36枚撮り百本のモノクロを撮ったが、私にとって発表を前提としたモノクロ撮影ははじめてであった。パリの街中に裸婦を配するというのが、私の基本的な方針だったが、いかにパリでも白昼堂々と、というわけにはいかない。夏の朝4時にサンジェルマン・デプレにモデルと出掛け、日がのぼりはじめ、まだ人通りのない頃を見はからって、大急ぎでシャッターを連射したものだ。なかなかスリルがあって面白かった。(中略)写真家になろうという野望は持っていない。しかし写真は私の表現の一手段として、今後も生き続けるかもしれない。
池田満寿夫
1934年、旧満洲国奉天市に生まれる。1945年、中国・張家口で終戦を迎え、母の郷里長野市に帰国。
芸大を数度受験して失敗。東京に出て油彩絵画の他、版画の技法を瑛九に学んだが、自己流を通した。
版画作品が評価されるようになったのは、東京国際版画ビエンナーレ展で日本人審査員は全く評価しなかったが、ドイツ人美術評論家でもあるヴィル・グローマン博士の「ここに東洋がある。日本の能面に通じる簡潔な美がある」と〝東洋の影〟を指摘して絶賛を浴びる。そのドライポイントを主にした版画が、ヴェネチア・ビエンナーレ版画部門でも評価を受けると共に、アメリカに招聘され、イーストハンプトンにアトリエを構える。その後、1977年に衆知の小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞受賞。続いて同作品の映画化で監督。音楽を担当したのがパートナーでヴァイオリニストの佐藤陽子である。その多才ぶりに当時、話題をさらい時の人となる。その後、陶芸界にも挑戦し多数の作品を発表。1997年(63歳)急性心不全で死去。死後、新聞各紙には「多才さが日本での評価を妨げ」など池田満寿夫を惜しむ美術評論家らの追悼文が掲載された。
- ギャラリー名
Art Gallery M84
- 住所
東京都中央区銀座4-11-3 ウインド銀座ビル5階
- 開館時間
10:30~18:30(最終日17:00まで)日曜休館 入場料800円
- アクセス
東京メトロ 日比谷線 東銀座駅 徒歩1分
- URL