TOPCOLUMN STREET60~70年代を駆け抜け燃え尽きた男 ブライアン・ダフィー

#COLUMN STREET 60~70年代を駆け抜け燃え尽きた男
ブライアン・ダフィー

アート写真最前線 vol.7 | BLITZ GALLERY 福川芳郎

60~70年代を駆け抜け燃え尽きた男 ブライアン・ダフィー

“DUFFY” ACC Art Books 2019, Book Cover

ブライアン・ダフィー(Brian Duffy/1933-2010)は、60~70年代にファッションや広告分野で活躍した英国人写真家。彼は、同世代の写真家デビット・ベイリー(1938-)、テレス・ドノヴァン(1936-1966)とともに、60年代の若者文化の大革命「スウィンギング・ロンドン」における重要なイメージ・メーカーとして活躍。また彼ら3人は、被写体のミュージシャン、モデル、俳優、ロイヤル・ファミリーと同様に、時代の最先端をゆく有名人としても注目されるようになった。

以前のファッション写真の撮影では、カメラマンはスーツを着てスタジオで仕事を行っていた。彼ら3人はそれまでの堅苦しい撮影手法を拒否。ファッション写真にドキュメンタリー的要素を取り入れ、旧態依然だった業界の基準を大きく変えた立役者だった。いまでは当たり前のストリートでのファッションやポートレート写真の先駆者だったのだ。

“VOGUE” 1964 ©Duffy Archive

当時のザ・サンデー・タイムズは、彼らのことを「Terrible Trio(ひどい3人組)」、有名写真家ノーマン・パーキンソンは「The Black Trinity(不吉な3人組)」、写真界の巨匠セシル・ビートンは「The terrible three(ひどい3人)」と呼んだ。ダフィーは当時を振り返り、「60年代以前のファッション写真家は、スリムで、背は高く、同性愛的だった。しかし私たち3人は背が低く、太っていて、異性を愛した」と語っている。

若かりしダフィーは画家を目指してセント・マーチンズ・スクール・オブ・アートに入学。しかし洋服に興味を持ち、卒業後は服飾デザイナーとして働きはじめる。その後は、ハ―パース・バザー誌でファッション・ドローイングを手掛ける。ファッション業界の仕事を行う中で写真に興味を持つようになり、スタジオ業務や撮影アシスタントを経験後に写真家のキャリアを開始する。

“VOGUE” 1966 ©Duffy Archive

ダフィーは、ルポルタージュ、ストリートの美学、大胆な画面構成、撮影アングルの強調、モデルの大げさなポーズ、などをミックスしたファッション写真を制作。それは戦後の階級が崩壊していく新しい時代のムードに完璧に合致していた。彼の仕事はブリティッシュ・ヴォーグ誌のエディターだったオードリー・ウィザーズに評価され、1957~1963年までは同誌で仕事を行う。

1963年以降は自身のスタジオをロンドン北部のスイス・コッテージに開設。その後、雑誌エル・フランス版の仕事を1979年まで続ける。ファッション写真以外でも、この時代を代表する、シドニー・ポワチエ、マイケル・ケイン、トム・コートニー、サミー・デイヴィス・ジュニア、ニーナ・シモン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、チャールトン・ヘストン、ウィリアム・S・バロウズ、ブリジッド・バルドーなどのセレブリティーのポートレートを撮影。60年代前半期、ダフィーは最も影響力を持つファッション/ポートレート写真家だった。

“Vogue, Florence, Italy” 1962 ©Duffy Archive

ダフィーは、写真表現において様々な技術的な探求を行っている。まだ画像加工ソフトのフォトショップなどが存在しないアナログ時代に、デザイナーとの共同作業や、エアブラシを取り入れた写真表現など、様々な可能性を探求。有名なピレリ―のカレンダーの仕事では、ダイトランスファー・プリントにエアブラシで加工を行っている。その技法は1973年制作のデヴィッド・ボウイのLPアルバム「アラジン・セイン」のジャケット写真の仕事に生かされている。ダイトランスファーで制作された同作品は、当時最も予算をかけた高価なLPアルバム写真と言われていた。

“Pirelli 1973 Calendar Compilation” ©Duffy Archive

70年代、ダフィーはデヴィッド・ボウイ(1947-2016)のヴィジュアル作りに関わっている。約8年間に、「ジギー・スターダスト(Ziggy Stardust、1972年)」、「アラジン・セイン (Aladdin Sane、1973年)」、「シン・ホワイト・デューク(The Thin White Duke、1975年)」、「ロジャー(Lodger、1979年)」、「スケアリー・モンスターズ(Scary Monsters、1980年)」の5回の撮影セッションが行われた。特にアラジン・セインのLPアルバムのジャケットに使用された写真は「ポップ・カルチャーにおけるモナリザ」とも呼ばれている代表作。写真家ダフィーの名前を知らない人でもこの写真を見ているはずだ。70年代のボウイのヴィジュアルは目まぐるしく変貌していくが、それにはダフィーが大きく関わっていたのだ。二人はお互いの家を訪問しあう親しい友人でもあり、ボウイが最も信頼を置いていた写真家だったといわれている。

“Vogue, Florence, Italy” 1962 ©Duffy Archive

当時の写真家は、撮影に比較的自由裁量が与えられるファッション雑誌のエディトリアル・ページの仕事を好んだ。しかし実際のところ、それだけでは生活は成り立たなかった。大家族を養っていたダフィーも、70年代にはいると生活のために数々の広告写真の仕事に取り組むようになる。彼は撮影上の制約が多い広告写真をあまり好まなかった。「私の写真の99%は広告だ。それらはみんなくだらない」と語っている。若かりしダフィーは、ファッション写真の自由な表現の先にアートの可能性があると信じていた。しかし、それらは作り物の商業写真だと当時は理解されており、アート性が認められていなかった。彼によると「当時の写真はその場で終わるものだった。アート・フォトグラフィーはつい最近のアイデアだ」と語っている。

“French Elle” 1975 ©Duffy Archive

しがらみが多い広告写真では、写真家が自らの創造性を自由に発揮することができない。70年代後半になると大量消費社会が到来し、特に広告撮影ではクライアント、代理店など多くの関係者が写真表現に口を挟むようになる。写真家へ与えられる自由裁量が次第に限定されていくのだ。当時を思い返し、ダフィーは「仕事をくれる人たちが嫌いだった」とも語っている。そして1979年、たぶん仕事のストレスと心身の過労が限界に達したのだろう。彼は突然写真を止めると宣言して、スタジオの裏庭で多くのネガを燃やしてしまった。自分の写真家のキャリアの痕跡を世の中から消し去ろうとしたのだ。その後は、ミュージック・ヴィデオなど、映像関係の仕事に軸足を移すことになる。

ダフィーはキャリア途中で写真家を引退してしまう。現役時代には写真展開催も写真集刊行も行わなかった。またオリジナルのネガ類は消失したと考えられていたことから、長らく写真界で忘れ去られた存在だった。写真史家マーティン・ハリソンによる戦後ファッション写真史の解説書「Appearances」(1991年、Jonathan Cape刊)にも、ダフィーの記載はあるが図版は掲載されていない。

“Vogue, Florence, Italy” 1962 ©Duffy Archive

その後、90年代以降に状況が大きく変化する。ファッション写真が持つ時代性がアート界で再評価され、美術館でも展覧会が開催されるようになる。2007年、ダフィーの息子で写真家のクリスが父親の写真アーカイブスの重要性に気付き資料精査を開始する。幸運にも一部のネガが燃えずに無事に保管されていた事実が判明するのだ。その後、残されていた作品群が整理分類され、2009年にロンドンのクリス・ビートル・ギャラリーで初個展「Duffy」が開催される。またBBCテレビが特異なダフィーの写真家キャリアに興味を持ち、長編ドキュメンタリー番組「The Man Who Shot The Sixties」を制作。60年代に活躍したベイリー、ドノヴァンに次ぐ第3の男として一躍注目されるようになる。しかしダフィーは、自身の写真家キャリアの本格的再評価を見ることなく2010年5月に亡くなっている。

“David Bowie, Aladdin Sane” 1973 ©Duffy Archive

2011年、ダフィーのキャリアを網羅した待望の初写真集「DUFFY…PHOTOGRAPHER」(ACC Editions刊)が刊行。それがきっかけとなり、世界中で写真展が開催される。ブリッツ・ギャラリー(東京)でも2014年に個展を行っている。さらに2013年夏、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館で開催された「DAVID BOWIE is」展では、メイン・ヴィジュアルにアラジン・セインのセッションで撮られたボウイが目を開いた未使用カットが採用される。この世界巡回展をきっかけに、70年代にダフィーが撮影したボウイ作品の人気がブレイクする。ダフィーが絶望して、すべてを燃やして世の中から消し去ろうとした写真作品。いまそれらはアート・オークションで高額で取引されるとともに、世界中の主要な美術館やアート・ギャラリーで展示・コレクションされている。

“David Bowie, The Lodger Polaroid” 1979 ©Duffy Archive

2011年に刊行されたダフィーの写真集は瞬く間に売り切れ長らく絶版になっていた。2019年6月、多数の未発表のスナップ写真などが追加され、拡大版として刊行される。新版ではデヴィッド・ボウイ作品のセクションが追加されるとのことだ。またダフィーのファッション写真をフィーチャーした写真集も企画が進行中とのこと。残されたヴィンテージ・ファッション誌などの更なる調査を通して、燃やされたネガに残されていた写真が明らかになることに期待したい。

写真集「Duffy」
Chris Duffy
ACC Art Books、2019年刊
ハードカバー、サイズ 約22.8 X 29cm、224ページ
出版社URL
https://www.accartbooks.com/us/store/pv/9781788840088/duffy/chris-duffy/

BLITZ GALLERY

福川芳郎

ブリッツ・インターナショナル代表。金融機関勤務を経て1991年にアート写真専門のブリッツ・ギャラリーをオープン。写真展やイベントの企画運営、ワークショップやセミナーの開催など、アート写真に関する多様な業務を行っている。1999年にアート写真総合情報サイト『Art Photo Site』を開設。写真市場の動向や写真集の情報を提供している。共著に『グラビア美少女の時代』(集英社新書ヴィジュアル版、2013年刊)、編著に『写真に何ができるか』(窓社、2014年刊)。著書にアート写真集ベストセレクション101(玄光社、2014年刊)がある。

http://blitz-gallery.com/
http://artphoto-site.com

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