日常生活から生まれる抽象的カラー作品
テリ・ワイフェンバックは、日常に横たわる何気ないワンシーンを切り取って作品として提示し続けている作家だ。世の中には、見たことのない自然風景を求めて世界中を旅する写真家が数多くいる。しかし、特に彼女の初期作では、撮影場所は当時のワシントンD.C.の自宅周辺が中心。そこで出会った、植物、昆虫、自然風景などと光が織りなす美しいシーンを見つけ出して作品制作を行っている。
彼女の撮影スタイルは、ニューヨーク市の自宅アパート周辺を中心に撮影していたソール・ライターに通じるところがある。共通しているのは、強い意識を持って世界と対峙している点。普段見慣れた自分の身の周りの環境の中にも、奇跡的な調和がとれた、目を見張るようなシーンが発見できる事実を作品で提示している。
有名なフォトブックのガイドブック「The Photobooks : A History VolumeⅡ」(Martin Parr/Gerry Badger、2006年Phaidon Press刊)では、ワイフェンバックを、私たち多くが経験する日々の生活から抽出された日記的な作品だと評価。その身の回りの美しい自然風景を取り扱う作品は、日々の痛々しい人間関係に目が向けられているナン・ゴールディンの作品とコインの裏表の関係だと分析している。
彼女のカラー写真は、全体画面がピンボケの中に、シャープにピントがあった部分が存在するのが特徴。まるで夢の中にいるような、瞑想感が漂い、光り輝く万華鏡を見ているような印象の作品が多い。彼女は学生時代には絵画を学び、画家を目指していた。写真に取り組み始めても、写真で絵を描く可能性への強い問題意識を持っていた。彼女が目指したのは、20世紀前半に一世を風靡したピクトリアリズム的な、モノクロのソフトフォーカスの写真ではなかった。抽象絵画を写真で表現する様々な可能性を考えていた。最初はモノクロ写真で撮影を行っていたが、コダックのエクター25という低感度高画質フイルムとの出会いがきっかけでカラーへの取り組みを開始。それ以後は、色の変化と共に、画面の一部分だけにフォーカスするピント効果を利用した抽象的な写真表現に挑戦し続けている。
ナツラエリ・プレス刊行の写真集3部作
ワイフェンバックのデビュー作は「In your dreams(イン・ユア・ドリームス)」(写真集は1997年刊行)。ちょうど、当時のパートナーだった写真家ジョン・ゴセージが、ナツラエリ・プレスで写真集を制作中だった。「In your dreams」のポートフォリオを同社創業者のクリス・ピヒラーに見せる機会が偶然あって、写真集刊行が決まったという。同書には、1992年から1996年にかけて制作された25点が収録されている。最初の収録作品は、初めて取り入れたカラーフイルムの最初のロールで撮影されたとのこと。テキストは著名写真家ロバート・アダムスが担当している。
「Hunter Green(ハンター・グリーン)」(写真集は2000年刊行)は、ナツラエリ・プレスからの2冊目の写真集。前作の延長線上の、カラフルで夢のような抽象的な30作品が収録されている。紹介文は内田也哉子氏が担当。父親からプレゼントされたドレス色が「ハンター・グリーン」色だったことを象徴的に書いている。当時の出版社による本の紹介文には、ワイフェンバックの世界観を19世紀アメリカの詩人エミリー・ディキンソンの写真版などと称していた。写真集の図版の色味はオリジナル・プリントと比べてかなりコントラストが強めなのが特徴。ファイン・プリントと印刷は全く別物だという作家の解釈なのだ。
「Lana(ラーナ)」(写真集は2003年刊行)は、ナツラエリ・プレスからの3冊目写真集。これまでの2作品では撮影場所が創作上の重要要素だったが、具体的な地名とは関連付けられていなかった。同作では、イタリアの南チロルのラーナという町の明確な地名がタイトル名で提示されている。色彩豊かで複数のフォーカスを使用した夢のような作品スタイルは、同地の美しい自然風景の中でいかんなく発揮されている。
以上のナツラエリ・プレスからの3冊は、ほぼ同じ布張りの装丁とサイズで出版されている。彼女の作家の地位を確立させた、初期3部作と言われている。いまそれらは、古書市場で極めて人気が高いレア・フォトブックとして知られている。
現代アート的表現への挑戦
2000年代になり、デュセルドルフ美術アカデミ―でベッヒャー夫妻に指導を受けた、アンドレアス・グルスキーやトーマス・シュツルートなどの活躍が目立つようになる。世の中のアート表現の中心は現代アートに移行し、また従来のモノクロ一辺倒だったアート写真界でもカラー作品が注目されるようになる。コレクターや美術館のキュレーターも世代交代が進み、従来の写真の価値基準にこだわる人が少なくなっていく。
次作「Between Maple and Chestnut(ビトウィーン・メイプル・アンド・チェスナット)」(写真集はナツラエリ・プレスから2012年刊行)では、ワイフェンバックはこの流れを意識して、現代アート的な作品制作アプローチに挑戦している。同作では、従来の日常の身の回りの自然風景に白壁の一軒家と緑の芝に覆われた庭が登場する。タイトルに含まれる「メイプル」と「チェスナット」の名前が冠されたストリートは、かつて米国全土で見られたありふれた光景で、庭付きの家は中流アメリカ人の郊外生活の象徴だった。しかし21世紀になり、かつての場所は裕福な世代が住む高級住宅地に変わっていた。同作で彼女は、中間層の没落によりアメリカが何を失ったかを問いかけ、「一種の希望である純真さをなくした」と述べている。かつて米国には、誰でも成功するチャンスがあると考えられていた。同作で彼女は、もはやアメリカン・ドリームが存在しない事実を示唆しているのだ。
デジタルによる多様な表現の可能性探求
2015年以降、ワイフェンバックは制作方法をアナログからデジタルに移行している。この時代になると、現代アート系写真が市場を席巻し、コレクターの価値基準が大きく変化する。またシリアス・カラー写真の大御所ウィリアム・エグルストンまでもがデジタル作品に取り組むようになる。海外では環境急変に伴い写真のアナログからデジタルへの移行がかなり早く進行した。彼女もアナログ・カメラのライカから、デジタルのソニーα7Rを使用するようになる。レンズは引き続き従来のレンズを用いている。プリント方法も、アンログ・タイプCプリントからデジタル・タイプCプリント、インクジェット・プリントに移行した。
新方法で制作された最初の作品は「The 20×35 Backyard series」。2015年から2016年にかけて、すべて彼女のワシントンD.C.の自宅周辺で撮影された、カラーによる自然風景作品。デジタルによる原点回帰的な作品といえるだろう。同作では、彼女の創作の幅が大きく広がった点に注目したい。アナログ時代は、光が弱い冬場、動きの速い鳥、抽象的な作品の撮影が困難だった。デジタル・カメラの使用で、それらの撮影が可能になった。いま彼女はより自由な創作への挑戦を楽しむようになっている。本作は「Centers of Gravity」(onestar press, 2017年刊)、「Des oiseaux」(Éditions Xavier Barral, 2019年刊)で紹介されている。
日本の伝統的美意識との出会い
その後のワイフェンバックは日本での撮影プロジェクトが増加する。2015年に静岡、奈良、2019年には埼玉で主に現地の自然風景を撮影している。特に、2015年に伊豆三島に滞在して撮影された作品はライフワーク的な風景作品に重要な意味をもたらすことになる。彼女は場所の持つ気配を感じ取って写真表現するのを得意とする。同地では、歴史を大きく遡って古の日本人が伊豆の山河に感じた神々しさ、言い変えると八百万の神を意識し、自然に美を見出す「優美」の表現に挑戦している。
西欧人作家による日本の伝統的な美意識への気付きは極めて重要だ。同作は視点を変えると、自然を神の創造物ととらえ、人間が支配管理するという近代西洋の考え方の限界を提示しているとも解釈できる。初期作から続く日常の自然風景作品は、日本の自然美が加わったことで、いま世界的に広がっている地球の環境保護という大きなテーマにつながった。西洋の経済優先の合理主義ではなく、また東洋の自然美追求でもない、その中庸にこそ答えがあるのではないかというメッセージが提示されたといえるだろう。
地球温暖化による環境破壊の最前線を撮影する作家は多い。彼女はそのようなシーンではなく、あえて美しい理想化された自然を意識的に切り取って作品化している。私たちはそれらのヴィジュアルを見るに、こんな美しい地球の風景や精一杯生きている鳥や植物たちを大切にしないといけないと、頭ではなく直感的に心で理解できるのではないか。美しい風景作品の背景に、時代との接点を持つ明確なメッセージが読み取れるのだ。
グッゲンハイム奨学金による新作
彼女の新作「Cloud Physics」は、2015年に授与されたグッゲンハイム奨学金のプロジェクトだ。それは天候と科学をキーワードに、私たちが眼で見えるものと見えないものをテーマにしているという。「思考と感受性との関係性の提示を目指している」、と本人は語っている。この種のプロジェクトでは、作家は作品制作の説明責任を問われることになる。彼女は、自らの自然をテーマにした作品スタイルを、気象と関連付ける可能性を探求している。当初の予定よりかなり遅れているが、いまコロナウイルスの影響による自宅待機で、集中して編集作業に取り組めているという。近い将来、作品の全貌が明らかになるだろう。
テリ・ワイフェンバック(Terri Weifenbach)
1957年米国ニューヨーク州ニューヨーク市生まれ。現在、フランス・パリに在住。
メリーランド大学で絵画を学ぶが、30年以上に渡り写真家として活躍。教育者としても知られており、いままでにアメリカン大学、コーコラン・アート・デザイン大学、ジョージタウン大学などで教鞭を執っている。2015年グッゲンハイム奨学金。写真集は1997年のデビュー作「In your dreams」以来、多数を発表している。
作品はクリエイティブ・フォトグラフィー・センター(アリゾナ)、サンタバーバラ美術館などの世界中の美術館でコレクションされている。
2017年には、IZU PHOTO MUSEUM(静岡県)で「The May Sun」展を開催。2020年には「さいたま国際芸術祭2020」に参加。2019年、同芸術祭のテーマ「花 / Flower」を念頭に置いて撮り下ろされた作品がメイン会場の旧大宮区役所で展示予定。(コロナウイルスの影響で延期、開催時期は未定)
BLITZ GALLERY
福川芳郎
ブリッツ・インターナショナル代表。金融機関勤務を経て1991年にアート写真専門のブリッツ・ギャラリーをオープン。写真展やイベントの企画運営、ワークショップやセミナーの開催など、アート写真に関する多様な業務を行っている。1999年にアート写真総合情報サイト『Art Photo Site』を開設。写真市場の動向や写真集の情報を提供している。共著に『グラビア美少女の時代』(集英社新書ヴィジュアル版、2013年刊)、編著に『写真に何ができるか』(窓社、2014年刊)。著書にアート写真集ベストセレクション101(玄光社、2014年刊)がある。